生没年不詳であるが、生年は天延二年(974)〜天元元年(978)の間とするのが通説である。平安時代中期の歌人。中古三十六歌仙の一人に数えられる。
 
 大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、父の官名と夫の任国とを合わせて「和泉式部」と呼ばれた。この道貞との間に娘 小式部内侍を儲ける。夫とは後に離れるが、娘は母譲りの歌才を示している。
 まだ道貞の妻だった頃、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王との熱愛が世に喧伝される。為尊親王の死後の翌年、今度はその同母弟である「帥宮(そちのみや)」と呼ばれた敦道親王の求愛を受ける。この求愛は熱烈を極め、親王は式部を邸に迎えようとし、結果として正妃が家出するに至った。

 敦道親王との間に一子永覚を儲けるが、兄と同じく、敦道親王も寛弘四年(1007)に早世する。服喪を終えた式部は、寛弘末年(1008-1011)頃から一条天皇の中宮藤原彰子に女房として出仕を始めた。この頃、同じく彰子の周辺にいた紫式部・伊勢大輔・赤染衛門らとともに宮廷サロンを築くことになる。四十歳を過ぎた頃、彰子の父道長の家司藤原保昌と再婚し、丹後守となった夫とともにその任国に下った。万寿二年(1025)、式部に先立ち娘の小式部内侍が死去。式部晩年の詳細は知られていない。
 
 歌人式部の真情に溢れる作風は、恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多いのは数々の恋愛遍歴によるものであろう。その才能は、同時代の大歌人藤原公任にも賞賛され、正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえる。伝存する家集は、『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』など。また『拾遺集』以下、勅撰集に二百四十六首の和歌を採られ、死後初の勅撰集『後拾遺集』では最多入集歌人の名誉を得た。
 
 さらに、敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』(寛弘4年(1007)頃成立)は、わが国の女流文学を代表する一つとしてよく知られている。本作品の特長は、恋愛に関する式部のありのままの心情描写が、取り交わされた多くの和歌を交えてあらわされていることである。
「和泉式部について」プリント用ページ