京都新京極 御朱印めぐり

和泉式部 誠心院

和泉式部 誠心院

京都市中京区新京極通六角下ル中筋町487

TEL075-221-6331FAX075-221-6336

京都新京極 御朱印めぐり

誠心院について

誠心院の寺伝

娘に先立たれた和泉式部は
誓願寺にて、ご本尊に教えを受けた

万寿4年(1027年)、上東門院彰子(藤原彰子)が父・藤原道長に勧め、法成寺の中の東北院の傍らに寺を建立させ、「東北院誠心院」としました。(現在の京都御所の東、荒神口辺り) 寺伝に依りますと、初代の住職は平安の歌人和泉式部で、その法名を誠心院専意法尼と申します。

娘の小式部に先立たれた和泉式部は、書写山円教寺の性空上人の元を訪ねて女人往生の術を乞い、性空上人の教えをもとに誓願寺の本堂にお籠り、ご本尊に教えを受けます。

和泉式部 誠心院

そして、女人の身でも六字の名号をお唱えすれば身の穢れが消えて往生できる事を知り、六字名号を日々お唱えして、阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられ浄土へ往生したといわれています。
その後、鎌倉期には小川通一条上ル誓願寺の南に移転し、この頃に泉涌寺の末に成ったようです。
天正年間には豊臣秀吉の命を受けた山口甚介が、寺町六角下ルの現在地に移転しました。

幕末、禁門の変による元治元年(1864年)の大火から立ち直る間もなく、明治4年に京都府知事の政策で新京極通が誕生し、通りを隔てて境内地は二分される事になります。
山門・堂宇を失い、まさに寺門は荒廃を極めましたが、雲龍院からお越しの泉周応宗師をはじめ、箸蔵栄龍先師が再建にあたりました。

明治43年(1910年)にも近隣で火災が発生し、蔵を残してすべてが焼失しますが、曽我部俊雄・向井俊恭の二人の先住様方の弛まぬ精進と、檀信徒の惜しみない助力のお蔭で、大正8年(1919年)に現在の本堂が建立されました。

平成9年末、山門の建設が成った時には檀信徒一同その喜びは一入でした。
そして近年、天正年間に建立された「阿弥陀如来と二十五菩薩石像」を再建し、「百親音巡拝」成満を記念して「式部千願観音(和泉式部の面影を偲ぶ、千人の願いを込めた、万人に利益を施す聖観音菩薩と言う思いです。)」と「百八観音」「神変大菩薩」の石像を建立する事が出来ました。

誠心院の境内

-誠心院境内の様子-

  • 未開紅の梅 開花の様子

    未開紅の梅 開花の様子

  • 境内の紅梅 開花の様子

    境内の紅梅 開花の様子

-誠心院境内の史跡-

  • 二十五菩薩像(石像)

    二十五菩薩像(石像)
    江戸時代

    和泉式部が女人往生を遂げたことに由来する二十五菩薩来迎の像。天正年間、寺移転再興の時、山口甚介により建立されたものです。

  • 水かけの行者

    水かけの行者
    神変大菩薩像(石像)

    幕末の大火で消失した神変大菩薩像(木造)を再興したものです。

  • 和泉式部の歌碑

    和泉式部の歌碑

    彼女が生前に愛した「軒端(のきば)の梅」と共に本堂脇に佇んでいます。
    歌碑には万代和歌集に収められている春の歌が記されています。

    「霞たつ 春きにけりと この花を 見るにぞ鳥の声も待たるる」

  • 鈴成り輪

    知恵授け・恋授け
    鈴成り輪(すずなりくるま)

    和泉式部の古い灯篭の竿と台座を使った、鈴なりの輪です。 魔尼車とも呼ばれ、一回廻せば経典を一回読誦した功徳が得られます。

山口甚介秀康(やまぐちじんすけひでやす)

山口甚介秀康

甲賀五十三家の実力者の元に生まれ、織田信長の命により宇治田原城(山口城)を京都府綴喜郡宇治田原町に築城、初代城主となる。また、信長から宇治川平等院前に橋を架けるよう言われ、これに尽力した記録もある。
「本能寺の変」の際、知らせを受けた徳川家康を逃がすために、長谷川秀一や本田忠勝らに協力し、宇治田原城で一行をもてなすなど、歴史的にも有名な「伊賀越え」に貢献したとされている。天正年間、秀吉の命により誠心院移転、再興を担当した。生没年は不詳。

池西言水(いけにしごんすい)

池西言水

通称八郎兵衛。生没年:1650年~1722年(慶安3年~享保7年) 奈良生まれ、江戸初期~中期の俳人で、同時期に活躍した松尾芭蕉とも親交が深かったといわれている。二十歳台後半には江戸で名を挙げ確固たる地位を築き、三十歳代で京都に移住ののち、全国を行脚しつつ数々の名句を残している。代表的な句から「こがらしの言水」として名を馳せる。 晩年は、新町通六角下ルに腰を落ち着け、七十二歳で没す。

紫藤軒言水(池西言水の別号)墓石の句
「木がらし乃 果はありけり 海乃音」

-和泉式部誠心院専意法尼の墓所(宝篋印塔ほうきょういんとう)-

  • 宝篋印塔

    宝篋印塔ほうきょういんとう

  • 奉納写経会の様子

    奉納写経会の様子

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山門と近隣

年間数百万人の往来を数える
京都有数の繁華街 -新京極-

世界各国の観光客や地元の人に愛される新京極通は距離にして一キロ弱ですが、年間数百万人の往来を数える京都有数の繁華街の一つです。
ひと昔前までは修学旅行の学生さんを相手にするお土産屋さんが多数を占めていましたが、最近では洋服・雑貨・カフェなどの他、複合映画館なども並ぶ多種多様な趣を見せています。

山門と近隣

今でこそ沢山の人で溢れかえる寺町・新京極界隈ですが、この辺りは元々は鴨川の河川敷でした。
天正年間(1573~1592年頃)に豊臣秀吉が京の町を整備するために洛中の寺々を集めた事から「寺町通」が誕生し、寺の縁日の際に、境内に見世物や催し物を中心に発展しました。
明治元年~2年(1868~1869年)には明治天皇が東京にお出かけになり活気を失いつつある京都の町を復興すべく、明治5年(1872年)当時の京都府知事であった槇村正直が寺町の寺院の境内を、三条通~四条通間に博覧会のための常設のお祭り通りとして「新京極通」を造りました。

明治10年頃(1877年頃)には芝居小屋や浄瑠璃の興行所をはじめ、飲食店・雑貨屋などが多く立ち並ぶようになり、明治30年代になると、東京の浅草・大阪の千日前とともに日本の三大盛り場として全国に知られるようになりました。

そんな華やかな賑わいを見せる場所に誠心院はありますが、一歩山門をくぐってみれば、歴史と文化を感じさせる静謐な空気を感じて頂けると思います。

御朱印(納経印)について

御朱印

御朱印(納経印)は元来は、寺院などで写経を納めた際に参拝者に渡していた証でした。
寺院や神社によって様々な墨書・朱印があり、近年では記念として集める人も多く、手軽に親しまれています。

誠心院でも「新京極 御朱印めぐり」八社寺のひとつとして参拝の方に御朱印をお渡ししております。
御朱印帳をお持ちでない方には書き置き朱印がございますので、ご希望の方はお申し出くださいませ。

色とりどりの和紙に、和泉式部の和歌が入った当院ならではの御朱印もございます。(納経料各300円)

  • ※御朱印の受付けは午前9時~午後5時まで
    となります。

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