平成19年9月吉日
当院に伝わる「和泉式部縁起絵巻」(江戸時代製作、上下二巻)の絵画部分のパネルを製作展示しました。
これは、当院初代住職である和泉式部が女人往生を遂げるまで(上巻)と、謡曲「誓願寺」の題材ともなった一遍上人へのお告げと、式部が来迎の歌舞の菩薩と共にお迎えに来る様子(下巻)が描かれています。
上巻七場面、下巻六場面があり、それぞれ主題、解説を記載しています。
宮廷歌人としてその名を馳せた和泉式部は、晩年、この世の無常を思い、来世に不安を感じていた。
そこで女官2人と連れ立って、播磨国書写山円教寺(兵庫県姫路市)へと旅立った。
円教寺には性空(しょうくう)上人という名高い僧侶がいたからである。
淀の船着き場に到り、そこから船で淀川を下っていくところである。
円教寺の門前に着いた和泉式部たち。しかし、寺の門は閉ざされている。和泉式部は次の歌をくりかえし詠んで、開門を請うた。
「くらきよりくらきみちにぞ入りぬべき はるかにてらせ山のはの月」
和泉式部の歌に感じ入った性空上人は門を開け、和泉式部らと対面する。
「女の身で西方浄土に往生する道はないものでしょうか」と問う和泉式部に、性空上人は「石清水八幡宮(京都府八幡市)の八幡大菩薩は阿弥陀如来の化身ですから、この神様にお祈りすればよいでしょう」と教えた。
石清水八幡宮に参拝し、七日七夜のお籠もりをすると、和泉式部の夢の中に八幡大菩薩があらわれ、次のようにお告げになった。
「私は神の道に入って久しいので、仏の道を忘れてしまった。
京都の誓願寺(当院の北にある)の阿弥陀如来は一切衆生を極楽へと導いてくださるから、誓願寺で祈りなさい。」
誓願寺に参籠すること四十八日、ある夜、夢に尼僧が出てきて和泉式部に告げた。
「南無阿弥陀仏と念仏をお唱えすれば、女の身であっても極楽に往生できることは間違いありません。」
和泉式部はこれを信じて、誓願寺に日参するときのほかは小御堂(当院の本堂、当時の所在地は寺町荒神口辺り)に籠もり、日夜「南無阿弥陀仏」とお唱えするのを怠らなかった。
和泉式部は出家して、専意と名を改めた。
そして長和3年(1014年)3月21日、紫雲が軒先にたなびいて芳香が薫る中、極楽往生を遂げ たのである。
和泉式部の往生から二百六十年余りが過ぎた建治2年(1276年)3月、時宗の開祖として知られる一遍上人が、熊野本宮大社(和歌山県田辺市)に参拝した。
阿弥陀如来の化身である熊野本宮大社の祭神は、一遍上人に
「六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙香花」
という四句を説き、「南無阿弥陀仏の六字の名号を唱えれば極楽浄土に往生できると説いて、衆生を導きなさい」とお告げになった。
一遍上人はお告げに従い「南無阿弥陀仏六十万人決定(けつじょう)往生」のお札を配って遊行した。多くの人々が、きそって一遍上人のお札を受けた。
一遍上人が誓願寺でお札を配っていると、一人の女性が「ここには六十万人決定往生とありますが、六十万人しか往生できないのですか」とたずねた。
一遍上人は「往生の人数ではありません。熊野権現のお告げの頭文字です。だれでも南無阿弥陀仏と唱えれば必ず往生できます」と答えた。
女性は「誓願寺の額を南無阿弥陀仏に書き換えなさい。これはご本尊のお告げです」と言った。
一遍上人が不思議に思って名をたずねると「私は和泉式部です。あそこに見える誠心院の小御堂が、私が往生したお堂です」と言って、石塔の辺りまで来ると、忽然と姿を消してしまった。
一遍上人が言われたとおり額を書き換えると、周囲に紫雲がたなびき、 和泉式部が歌舞の菩薩たちとともにあらわれた。人々は驚喜し、一遍上人はおどろいて合掌し礼拝した。